死の喪章_3

山中は今、ついに五年前の事件の真相のページを捲ろうとしている。それはあたかも、自分の体に電流が通り抜けて行くようであった。
「千島さん、その五年前の九州・小倉競輪場で起こった落車事故の件、それちょっと知りたいんだけどな」
「あれは競輪祭のレースだったなあ」
千島はつぶやいた。
「競輪祭って?」
「うん、毎年一回、競輪の発祥を祝って小倉で行われるレースだよ。むろん、選ばれたA級選手達で覇を争うんだけどね。そうだなあ、あれはちょうど4レースのときだったね。本命は吉田雄久、対抗は火元一男というのが、大方の予想だったな。その日で一番堅い本命レースだし、われら穴買いで楽しむ少数車券派にはご用のないレースだったんだ。もっとも車券師たちは飛びつくだろうがね。ところがあれは、場内に軽快なクワイ河マーチの曲に乗って九人の選手がバンクに姿を現したときのことだった」
山中は千島の方に椅子をぐっと引き寄せた。
「そのとき、僕の前の電話が鳴ったんだ。はい、東都スポーツの千島です、といったとたん"2番選手には用がないぜ"といったきりプツリと電話が切れたんだ」
千島は不愉快に思った。
「この種のいたずらはちょくちょくあるし、そのときも、ああまたいたずらな、と思ったのさ。ところが僕は仰天したね。なにしろ電話の通りのことが実際に目の前で起こったのだから」
「やはり2番の吉田選手が…」
「そうなんだ、落車しちまったんだ。しかもただの落車じゃなくて死んだんだ。頭蓋骨骨折でな。あと味の悪いレースだったなあ」
千島は机上のホープを取り上げ、ライターで火をつけるとうまそうに吸い込んだ。千島の口から吐かれた紫煙は大きな二重の丸い輪を描いた。やがてそれは天井にぶつかると崩れた。
「レース中にはなにか変わったことはなかったの」
「レースは展開通り周回を重ねていたんだ。打鐘で、それまで五番手に位置していた火元選手以下三人の選手が一斉に先行態勢の吉田選手につづき、三角を回り、ああ二人で決まりだな、と思った瞬間、なにを思ったのかマークの火元選手が吉田をインに抑え込んじゃったんだな。なんで火元選手があんな不可解な行動を取ったか、いまだに謎なんだが…」
スピードが乗っているところを、後続の火元選手の後輪に触れては、ひとたまりもなかった。それはあっという間の事故であった。
「むろん、火元選手は失格さ。後日聞いた話では随分、管理できつい取り調べにあったらしい。レース結果は確か三万五千余の大穴さ、記者席でも穴買いは穴買いに徹すべし、なんて騒いでいたから余計印象にも残ってるんだ。これが五年前の4 レースに起こった事故の詳細さ」
「4レースの2番選手の落車か…。千島さんなにか因縁めいてるね」
「因縁?」
「そう、なんだか"死の喪章"を感じるね」
「わかったぜ、ヤマさん、なかなかいけるね。黒のユニホームの2番選手の死の喪章か」
「おい千島君、電話だ」
千島は席を立ち、会話が途切れた。
「千島さん、どうも有難う。また気づいたことがあったら、頼むよ」
山中は自分の席に戻った。
------------------------------------------------------------------------------------

その日は朝から今にも泣きだしそうな雨空だった。山中はなんだか憂うつだった。
ぼんやり立ち消える紫煙に目をやっていた。野太い声が入ってきた。
「山中さんですか」
「ええ、そうです。山中です」
山中は振り返った。
「私たちは千葉・館山署の捜査一課の田内と江川と申します」
山中の前に黒い手帳を突き出した。
「その節は、ご協力頂き大変感謝しております」
山中は二人の刑事を前にして、刑事とはほど遠いイメージのする二人を見直していた。
山中は推理小説をよく読む。作中の刑事はいつも背広の肩には白くフケがたまり、すり切れたクツをはき、ぶしつけに質問をする。だが、ここにいる二人の刑事はカルダン風のスーツを着こなし、幅広のネクタイを締め、カッコよくタバコをふかし、理路整然と山中に質問している。これではまるで外国風のハードボイルド小説ではないか-と思った。
「その後、ひき逃げした犯人はどうなってますか」
「それなんですが、われわれも捜査一課全員で当たっているんですが、おもわしくなくて…」
田内刑事は口を切った。
「ところで山中さん、吉田源三さんが電話されに行かれていたとき、被害者、つまり火元一男さんの死体の近くに何かありませんでしたか?」
「何かといわれても…」
「鑑識が調べたところによると、火元さんの死体から10メートル程離れたところに微量ですが、散乱したガラスの破片を発見したんです。さらにそれを科研(科学捜査研究所)に回して調べてみると、それはクリスタルガラスでした。しかも外国製の婦人用高級時計に使用しているガラスなんですよ」
「婦人用の腕時計?」
「そうです。なにしろR社製のやつといえば、かなり高級なやつですからね」
「山中さんは死体の一番近くにおられたわけですが、婦人用の腕時計の本体か、なにか見かけませんでしたか?」
「いえ私は、なにも気づきませんでした。本当に」
二人の刑事は額に縦じわを寄せた。二人はそれから二、三の質問をつづけると腰を上げた。
山中はもう一度あのときの事故状況をたどっていた。
そういえばあの当時、被害者の顔を見た吉田源三の顔はただならぬものだった。
「源さん救急車が来たようだよ」
と山中が彼方を指したとき、源三はあわてていたような気がする-あれはひょっとするとなにか拾ったのかもしれない。館山署の刑事もいっていたが、被害者火元一男の死体の右手には長さ10センチ程、手首からヒジにかけて縦に切り傷があったという。つまり火元一男はひき逃げした車とすれ違った瞬間、被害者と車を運転していた加害者の時計をしていた左手とが衝突したことになるのではないだろうか?
次の公休日、山中は新宿午前七時発の「急行なぎさ1号」に乗った。十時三十分には吉田源三の家にいた。
「源さん、三日前に館山署の刑事が、僕のところへいろいろ訪ねに来たよ。最近の刑事ってえのはなかなかスマートな刑事が多いね」
源三は天井を見詰めたまま、空ろな視線を山中に送った。
「おい山中、オレたちがあの事故が起こったとき、しっかり目撃していりゃ、こんなひき逃げなんてとっくの昔、解決していたよな。二人とも酔っぱらっていたのが残念だなあ」
「源さん、話は違うんだが、あのとき、源さんがかがみ込んで火元の顔をのぞいたとき、源さんは一瞬、驚愕の声を上げたね」
源三の顔は当惑の表情に変わった。
-それは当然のことだった。源三は五年前、九州・小倉の競輪場で唯一人の息子吉田雄久を失った。そのときの加害者ともいうべき人物が火元一男だったのだ。その火元が現在、今、ここに引き逃げの被害者として横たわっている-
運命のいたずらだろうか?いや運命のいたずらにしては、あまりにも出来すぎている。
「ところで源さんがかがみ込んだとき、被害者のそばで何か拾った様子だったんだが…」
「わしは何も拾ってなんかいないぞ」
「先日の刑事がいっていたんだが、被害者の火元選手の死体の付近に婦人ものの高給腕時計のクリスタルガラスが散乱していたそうですよ」
しゃべりながら山中は、源三の顔から血の気が引いていくのを感じ取った。
長い沈黙が続いた。やがて源三は静かに思い口を開いた。
「おい山中、すまぬ。すべてを知っていると思われるお前を前にして隠そうとしたオレが恥ずかしい。本当に浅はかだった。もう全部話すときが来たようだ」
あまりの反応に山中は驚いた。

[Next 〜次へ〜]

 
(c)2008 Yoshihiko Monji Library All Right Reserved.