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死の喪章_4
「まず五年前のこと、そう、つまりわしと君が知り合った新宿の歌舞伎町のことだ。君は泥酔し、独り言を口走って血のりのついた車券のことを聞きたがったね。あの当時のわしは心がすさんでおったのだ。妻が医師から肺ガンだと宣告され、今すぐに手術をしなければ危ない。でも手術すれば助かるとは確信は出来ぬということだった。最近めきめき芽が出て来た息子の雄久には隠していた。大事な時期に余計な心配をかけたくなかった。恥ずかしい話だが、この歳で貯えらしい貯えもない。会社に頼んで前借りした残り少ない退職金の最後の百万円を借りた。手術がすんでしばらくしたら、妻を空気のいい、静かな土地でゆっくり静養させてやりたかった。それには最低二百万は用意しなければならなかった。金がないオレは焦った。そして、やってはいけないことをやってしまったのだ」
「その百万を息子さんのレースに賭けたんですね」
「……」
二人は海の側の岩場に立っていた。
「あれを死なせたのは、火元一男ではない。オレなんだ!」
源三の野太い声が、房総の雄大な時化(しけ)た海に吸い込まれていった。
「源さん、そんなに興奮しないで」
山中は吉田源三の肩に優しく手を置いた。
「結果は君が知っての通りだ」
大きな波が押し寄せ、岩にぶち当たった。小さなしぶきが源三の顔をぬらした。その雫は皺に刻まれた源三の頬を伝って落ちた。
「妻の手術にも付き添わず、あの時のオレは何かにつかれた一介のギャンブラーになり下がって、ただバンクの金網を握りしめていたんだ。息子が死に、さらに妻までも…オレは一体どうすればいいのだ」
次の波が来た。源三の顔をさらにぬらした。それはもう雫ではなかった。涙だった。一気にここまで話した源三は大きく息を吸った。
「山中君、君に時計の件を聞かれた時、ああ来るべきものが来たと思った。君のカンは鋭い。やはり君はブン屋だ。伊達じゃない。立派だよ。何事かを見つけると粘り強く食らいついて行く。昔のオレもそうだった。若いということを誇りに思わなくちゃ…」
源三は海のはるか彼方に目をやった。
吉田雄久には、真柴麗子という恋人がいた。真柴麗子は初めは、同期であり良きライバルだった火元を慕っていた。だが、鳴り物入りでデビューした火元は、だんだん自己を忘れる程の派手な男になっていった。
やがて芸能人や得体の知れぬ者たちとの交際も盛んになり、練習を怠ける日々が多くなった。当然結果は目に見えて悪くなった。やがて降級となり、麗子はそんな火元にいや気がさしていた。周りの連中もそんな火元から離れて行く者が多かった。もう弱い火元なんかには魅力はなかった。
一方、励ましてくれる同期のライバル吉田雄久はデビュー時こそパッとしなかったが、真面目な練習が開花し、実力では火元を凌ぐ程になっていた。そんな男らしい吉田に真柴麗子は魅かれるものがあった。やがて二人の愛が本当の愛に育って行くのに時間はかからなかった。二人は婚約を交わしていたのだった。吉田雄久は麗子に婚約指輪ならぬ婚約時計を贈った。
一方の火元一男は焦った。火元の黒い交際も幾度か吉田は耳にした。他の選手仲間からも
「君のいうことなら聞くかもしれない。注意してやれよ」
そんな声も多々聞いた。麗子を吉田に奪われた今、すさんだ火元には吉田の忠告なんて最早や無駄だった。
そのころ、山中はレース部の千島から一つの情報を得ていた。それは火元一男が八百長選手と認められたことだった。火元一男が街道練習中死んだ一カ月程後のころ、東京赤坂の自転車振興会の審査課では、五年前の吉田雄久選手の死んだ事故レースは火元の故意のレースだと決断を下したのだった。それは火元と交際があった暴力団、木曽組の幹部、木曽権太郎が、警察庁が推し進めている暴力団追放の"C・C作戦"で別件逮捕されたことから明るみに出たのだった。"C・C作戦"とは俗にクラッシュ・クリーニングと呼ばれ、大阪、兵庫などの主要都道府県警察の暴力担当課長会議で決まったいわゆる暴力団壊滅作戦なのだ。
あのレースの時、木曽は絶対本命の吉田をなにがなんでも「消せ」と火元に至上命令を出していたのだ。
木曽権太郎は
「もしこのレースを失敗すると過去のお前がやった黒いレースを全て公表し、お前の選手生命を断ってやる」
と脅したのだった。木曽は最近、警察のC・C作戦には手を焼いていた。続々と摘発される組員にも焦りを感じていた。組を大きく再建するためにも火元に賭けたのだった。
そのころ、火元一男は毎日、毎日千葉の白浜-千倉間のロードで昔の自分を取り返しつつあった。自分をいやという程、練習で苛めたかった。
「このレースが終われば、もう足を洗って元のオレに戻ろう。一から出直し、そしてダービーを目指すんだ」
男の意地に燃えたのだった。デビュー時のニックネーム"火の玉"のように…。
火元は心で悩み、そして戦っていた。
木曽権太郎は
「今度のレースが成功すれば、過去の行動とオレたちの交際は一際なかったことにしよう。男の約束だ。だが失敗すれば、どうなるかわかってるな」
火元は自分の将来を賭けた。足を取られて沈んで行く底なし沼の己の姿と闘った。
だが、火元には限度があった。それには彼はあまりにも黒い血に染まり過ぎていたのだった。
場内に軽快なメロディーが流れた。いよいよ選手の入場だ。クワイ河マーチの曲がやんだ。場内は一瞬水を打ったように静まり返った。やがて九人の選手がスタート台についた。3番の赤のユニホームの火元は、かねて木曽権太郎らと打ち合わせた通り、黒のクリップバンドを強く締めた。黒のクリップバンド-。
それは一体何を意味するのか?それは2番選手殺しの符号なのだ。黒いバンドを締めた火元一男は、背筋を伸ばすと天を仰いだ。隣の吉田はいつもはあんなにいやがっていた黒のクリップバンドを締めている火元を不思議に思った。運動選手は縁起を担ぐ者が多い。火元も例外ではなかった。彼は黒い色をすごく嫌った。むろん、本命になった吉田が2番わくに入ったことも…。その火元が今、自らの手で黒のクリップバンドを締め直している-。
ピストルが鳴った。スタートだ。火元は予想通り吉田雄久の後にぴったりとマークした。 |
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